第8話





 銀色の月が宥めるかの如く群青の空を仄かに照らす空間に、身分違いの親子がそっと手を取り合う。
ほんのひと時の安らぎの時間を求めるために・・・。


 サマヤは母に仲の良い牢番から聞かされたことですが、と前置きをするとささやく様に話し始めた。誰に聞かれるやもしれないと
無意識に警戒している所為か、王妃はひそやかに顔を寄せた。
『いいですか、母上。今、あの牢獄に入れるのは妻である母上だけです。王様は満足に食事も与えられず苦しんでおいでです』
『・・・そんな!知りませんでした』
 側近の者達は決して伝えないことであった。王の母親の耳には届かぬようにしているのは、息子アジャータであろう事はすぐに
でも察することが出来る。やはりやましさもあるのだろう、そしてそこまで非情に徹するものなのかと王妃は衝撃を隠せなかった。
『ですから、母上のお体に食べ物を・・・たとえば蜜のようなものを塗って衣(きぬ)でお隠しください。手に何かを持っていったとしても、
取り上げられてしまいます。それから、首飾りに飲み物をお入れになれば見つかる心配はありません』
『・・・そうですね、私にしか出来ぬというのはそういう事でしたか・・・』
『少しでも何か口にされれば、命をながらえられるかと思います。どうぞ明日からでもお始め下さい。きっと衰弱なさってるかもしれま
せん』
『ええ、分かりました。信頼できる侍女を数名集めましょう・・・サマヤ、あなたが居てくれなければ私はどうなっていたでしょう。もし、
あなたが王家を継いでいたら・・・』
 日ごろから考えていたことがため息と共につい口の端から零れてしまう。
『母上。何をおっしゃっているのですか』
 やんわりと窘(たしな)める息子の声に、俯いていた王妃ははっと向き直る。
『私はここに置いてもらえるだけで十分なんですから・・・』
 そっと安心させるかのような微笑を向けるサマヤに、ただ目を合わせるしか出来なかった。この澄んだ瞳で見つめられると、それ以上
言えなくなってしまう・・・。母として何一つしてやれぬことを思うと、むやみな言葉をかけることは憚(はばか)られた。
『ともかく・・・王様がお元気になられ、アジャータ様を良き方向へお導きになることを願っています』
 思わず王妃は息子の手を取ると、ほっそりとした両の手で包みこんだ。少々驚いたようにこちらを向くサマヤの表情を見、何度も頷き
ながら成長した子の傷の残る日焼けした手を撫でるのだった。



 その後、まことしやかに流れた噂――。王妃が毎日のように王宮から離れた監獄へと通い、前王へ施しをしているのではないか、という
話である。
 しかし、そのような不確かな話題は暗黙のうちに否定され、現王であるアジャータの耳には届くこともなく時間が過ぎていったのである。
それはクーデターにより王座に就いた者を恐れて誰も彼の耳に入れようとはしなかった故であった。
 サマヤはその間も沈黙を守っていた。遠くから母を思いながら、ひたすら前王の快復を願うだけである。

 
『すまん、サマヤ。もう・・・無理だ』
 労働の合間に上の者の目を盗んで様子を訊きに来たサマヤへ、懇意にしている牢番の男はそう苦しげに告げた。
『もしかして・・・?』
『ついさっき、珍しく王様が牢獄へ来たんだよ。あいつが全部ばらしやがった・・・急げ、王妃様も居る』
 あいつ、とは王妃が特に気に入っているという番人であった。サマヤもよく知っていた者であったが、気弱な性格がきっと災いしたのだろうか?
と容易に考えがつく。だが、アジャータがわざわざ隔離された場所まで赴くなど思い至らなかった。母が居るとなれば最悪な事態にはなるまい
・・・と思うのだが胸騒ぎがおさまらない。サマヤはひたすら近づくことを許されぬ牢獄への方向へ駆け出した。

 不安を示す胸の鼓動を抑えながら、サマヤは夢中で走りきった。息を切らし立ち止まる牢の入り口では、数名の王の側近、中央には仁王立ち
のアジャータの姿が目に飛び込んできた。
 恐る恐る近づくと、王の斜め後ろで座り込み涙に暮れる王妃の黒髪が見える。
『来たか・・・』
 まるで待っていたかのような口ぶりだ。顔色を失っているサマヤへ王は険しい視線を送る。
『・・・お前、お前のしたことがどういうことかわかっているだろうな?』
 言いながら、くいと後の母を指しながら一歩王妃のもとへ近づく。
『私が今まで父上や母上から受けた仕打ちからすれば、こんなものでは済まない!・・・望まれぬ王子として命を狙われ、疎(うと)まれ
、あまつさえお前のようなヤツを母上と同じ血が流れているのを認めろなど虫唾が走る!お前など、はじめから居なければ良かったのだ!』
 猛(たけ)り立つ声音で言うアジャータの思いをサマヤはじっと聞くしかない。 
『・・・父上を救おうとした母上も、知恵を授けたお前も同罪だ!一体、何を企(たくら)んでいた?』
 王の問いに圧倒されながらも、サマヤは内心ちくりと切なさが心に刺ささる心地になりながらも、必死に首を振った。 
『企むなど、とんでもございません、ただ王妃様のお気持ちに応えようとしただけです』
 いつも自分との違いを見せ付けるように、威圧的な態度のアジャータを悲しげに潤んだ眼を向けながらに拝跪(はいき)した。
『父上を助けたい、そう言ったのだな?』
『王妃様は何よりもアジャータ様のお心をお慰めしようとしただけです。そのために王様をお救いしたかった・・・それだけなのです』
『・・・・何を言っている?私の命に叛(そむ)くような者は母とて許せるものではない。牢に入って頂く』
 すると、背後の王妃はひかえていた牢役人に引き立てられてく。
『お待ち下さい!どうか、お願いです!王妃様を殺めようとするのはおやめ下さい!父親を、王を殺そうとする者はいても、母を殺そうとするなど、
一度も聞いたとこはございません。どうか、それだけは・・・!王妃様は・・・』
 どうしても止めたい。その一心で叫ぶが如くサマヤの声が響く。
『そのうちお前も裏切り者として裁断を下してやる。今日のところは母上の仕打ちを裁くだけで免じてやったのだ。ありがたく思え』
 認めてもらえたわけではないのだ。そう歯噛みした気持ちを抑えながら、サマヤはただ頭を下げるしかなかった。王となったアジャータの命令
は絶対なのだ。こうして述懐(じゅっかい)するのも、立場違いであるのは分かっている。頑(かたく)なな彼の
心を解かす術ははないのか――。
 サマヤはこれ以上話すことが無理と覚り、がっくりとうなだれるしかなかった。



 ふらつく足をどこへ運んでいるのか分からない心地で、いつの間にかサマヤは王宮の裏庭までたどり着いていた。
 母の為に――。それだけを思って、自分に出来るだけの事をした。それが仇となってしまった・・・母を苦しめるつもりは決してなかった
のに・・・
言葉にならない混沌とした感情が胸の中を支配し、涙となってあふれ出す。力なく膝をつき、草むらへ飛び込むように突っ伏した。
 今までどんなに辛くても泣くまいと思ってきた。が、滂沱(ぼうだ)した涙を堪えきれず、サマヤは初めて己のタガが外れ号泣した――。
 
 

               *               *               *



「何!動き出した、だと?」
 馬頭からの知らせを受けた五官王は思わず声を上げた。静寂を保つ空間に、俄かに緊張が走る。
 執務室の廊下の長椅子で腰掛けている宋帝王も、瞬時眉根を寄せた。確かにこの地獄界の空気が緊張に包まれていくのは肌で
感じていたのだ。
「もしや、阿修羅界でくすぶっていた・・・?」
「そうだ。しかし今、鬼太郎達を動かすわけにはいくまい」
 来るべき時が刻一刻と迫ってきているのは十分承知している。五官王は背後の扉へと振り向いた。部屋の中の少年を慮るように
視線を向けながら、胸の奥にしまい込んだ翡翠(ひすい)色の冥界符をおもむろに取り出し、つと凝視した。
「・・・それは?」
「ネコ娘が皆に願いを込めて渡してくれたものだ。仲間としての証だとも言っておったが・・・」
 五官王は噛み締めるように答えると、再び袂へ押し込める。
「鬼太郎は・・・あの者と決着をつけねばなるまい。今までと違う敵とな・・・」
 独り言めいて呟く五官王の言葉の意味を宋帝王も合点して深く頷いた。