気づいたときには、既に夜明けであった。
日の昇りきらない爽やかな風と薄暗さを伴った光が、古びた木枠窓のすき間から流れ込む。朝焼けの夏の空は一時の安堵をもたらしてくれている。
あれは夢の続きであったか・・・と夢と現(うつつ)の狭間で意識が漠然としたまま、鬼太郎はやっと眼を開けた。
「鬼太郎・・・?」
目の前にいるのは、ネコ娘本人だ。そう、魂を探り当てた時には虫の息であった少女は平素と変わらぬ姿を見せて見つめていた。
「ああ・・・ネコ娘。おはよう」
挨拶をしながら、まだ重みを感じる体を起こした。
「・・・あのね、鬼太郎。私、平気だから」
何を言わんとしているのか、分かる。短かな言葉の端に心配を掛けまいとする心遣いだということを。
「それなら・・・いいけど」
何故だかぎこちない会話であったが、十分だった。鬼太郎は、軽く頷くと探るように部屋を見回した。雑魚寝状態で仲間達が深々と寝息を立てている。気づかなかったが、やはりそうして側にいてくれ、それが当たり前で、自然な事なのだと思うと、妙な可笑しみを感じて思わず失笑した。
「どうしたの?鬼太郎」
「いや、何でもない」
久しぶりに声を上げて自分が笑ったのをネコ娘が指摘してきたのは、これよりずっと後になってからであった。
* * *
ゲゲゲの森の奥深く。邪の存在を押しとどめるかのように生い茂る木々の枝には、仲間の化けガラスがしきりに鳴き交わす声が木霊するだけの場。残暑の厳しさはここでは無縁のようだ。
鬼太郎は、横丁に一度は現れた羅刹とこの森で対決しようと皆に言うと、一人・・・否、一反もめんとネコ娘だけを呼び寄せて地獄岩の元へ向かった。まだ霊力が快癒(かいゆ)していなかったが、早急に決着をつけたいと思うのだ。
一反もめんの背にいる鬼太郎は、先に降り立ったネコ娘を見つめ、微かに形にならない呟きを口にして自ら驚き、はっと隻眼を見開いた。
何と発したのか?ネコ娘が聞き返そうとした瞬間、鬼太郎は真顔で言う。
「君には・・・君の中に大切な物を預かったんだ。どんなことがあっても護りたい。だからネコ娘。僕はそれを自分の【役目】だと思って戦うつもりだ」
らしくない物言いに、我ながら苦笑を浮かべてしまう。それでも思うままに吐いて出た気持ちをただ彼女に伝えたかったのだ。
抽象的な言葉をどう飲み込めばいいか分からないまま、ネコ娘は彼の思いを汲むように、強い意志の宿る瞳で凝視した。
「・・・・・・ね、鬼太郎。私だって鬼太郎の力になりたいよ。足を引っ張らないように頑張るから、ただ護られてるなんて嫌だもん。いつだってみんなと一緒に戦ってきたでしょ?」
だが、鬼太郎は静かに頭を振り
「霊石に邪魔されたのを怒って僕を――君も狙われる。庇いきれるか自信はないけど、絶対にこれ以上勝手なことはさせない」
「うん」
「今までみたいにいくか分からない・・・こっちもある程度リスクを背負ってかないと、きっと勝てない」
「そんな・・・」
「大丈夫だよ・・・あいつは昔からそういう奴なんだ」
「え・・・?」
昔から、などと言うのに違和感を覚え、不意に鬼太郎の顔があの過去の少年とだぶって見えてくる。淡々と言い切る顔がやけに遠くに思えて、ネコ娘は不安に眉を寄せた。
ふわりと浮かんだままの彼の視線の高さがそうさせているのか分からない。このまま知らない場所へ飛び去ってしまうのではないかとさえ思う。
「何か・・・変よ?鬼太郎?」
「そうかな?・・・・・・いや、大丈夫だ」
鬼太郎は自分に言い聞かせるように呟く。言われるよりも自分でも分かっていたのだから。
つと静謐(せいひつ)さをかき乱すような電子音が響いた。ネコ娘はオーバーオールのポケットから自分の携帯電話をとり出し、上蓋の表示画面を確認すると
「バケローからだわ。珍しいわね」
「どうした?」
何故か嫌な予感がした。じっと彼女の様子を見ながら、鬼太郎は固唾をのんだ。
「・・・・!どういう事?」
ネコ娘の顔色が変わる。緊迫した少女の声音で瞬時に把握した。やはり――!!
「しまった・・・まさかまた横丁に・・・」
妖気を発しない者を事前に察知することは出来ないのだ。それが今はとても歯がゆい。通話を終えたネコ娘の腕を無言で引き、再び一反もめんに乗るように促すと、阿吽の呼吸で飛び乗った。
* * *
残暑の熱気を吹き飛ばすかのような冷たい光景だった。横丁の空気は澱(よど)み、昨晩の凄烈(せいれつ)さが残っているのをまざまざと見せつけられた。雑多な妖怪達は既に家の戸を堅く閉め、物音一つ立てずに堪えている。とても普段は賑やかな商店街とは思えなかった。
一筋縄ではいかない――阿修羅界からの招かざる客達の蹂躙(じゅうりん)せんとする姿が目の前に拡がっていた。霊石に抗われた羅刹の怒りは昨晩より増したのだと一目瞭然だ。
駆けつけた息子の頭頂部に器用に登った目玉の父は、気鬱の色を滲ませた。
「やはり心配していた通りじゃ!羅刹は・・・仲間を呼び寄せると・・・古今に書いてあったんじゃ」
「えええ!」
かわうそが聞きつけ、素っ頓狂な声を上げた。かの異形の者が、妖怪でもないのに古今に記載されている事は、戦闘要員として残った一同にとって初耳だった。
羅刹の仲間・・・というのは羅刹部(らせつぶ)と呼ばれている厄介な者達だ。一度ここに現れた羅刹が爪痕を残した所為であろうか、と察しが付く。
「羅刹の仲間って、みんなあんな感じなのかよ~」
のけ反るように見上げていたかわうそは、大袈裟なほどの溜息をつきながら言った。確かに、先日現れた羅刹よりも身丈は低いが、あの鬼のような姿をしているのには変わらない。
「やっぱり父さんは気づいていたんですね」
皆が一目置くだけはある聡い目玉の父に、鬼太郎は眉一つ動かさずに言った。妖怪世界に絡んだ者ならきっと古今にも載るだろうという予想はついていた。どうしてそのことを察して父が調べていたのか分からなかったが、永い経験からくる知恵なのだと思う。改めて父の思慮深さを垣間見て、鬼太郎は胸の内で感謝していた。
「あーんな凄かった奴の、それも仲間だっていうんじゃおいら達勝ち目なしなんじゃ・・・」
「何いってんだい!それでも戦うんだよ!もう、しっかりおしよ」
アマビエが弱音を吐くかわうそに、発破を掛ける。心が挫けそうになるのを奮い立たせる為でもあるかのように。勝つか、負けるか――。そうではなく、この世界を護るために。己の非力さを感じている故に、強気な言葉を吐くしかない。
「とにかく力を合わせて退けるんじゃ!鬼太郎、わしは子泣きとぬりかべの方に行くからのう」
「わかりました」
すぐさま鬼太郎は一反もめんと共に上空へと舞い上がった。日差しのきつさが増した蒼天に、仰々しい程の鬼の化身達がうごめいている。そこへ躊躇なく突進していった。
その間にも、仲間達も自分の出来る精一杯の攻防をはじめていた。ぬりかべや子泣き爺は力技をかけ、砂かけ婆は魔封じの砂を使い、かわうそとアマビエは熱気を冷ます為に放水や川辺へと往復していた。
鬼太郎は空中を旋回し、業火をちゃんちゃんこで避けながら何度も指鉄砲とリモコン下駄で応戦する。
「髪の毛針!!」
四方に琥珀色の髪の毛針を散らし、こちらへと注意を引かせ、自分にめがけてくる羅刹部にさらに攻撃をしかけていく。
昨晩の出来事で、やや体力が落ちてしまっているのが痛いところであるが、鬼太郎は無心に敵前へ飛び込もうとし――一瞬の油断の隙に羅刹部の巨大な腕でなぎ払われる。
「うわーーーっ!」
強大な一撃に、鬼太郎と一反もめんは糸の切れた凧の如く急速に落下していった。
「危ない!!」
地上で見上げていたネコ娘は咄嗟に叫んだ。ただじっとしているだけでいられない。少女の声に呼応したぬりかべがしっかりと二人を受け止めたのだった。
既に数名の妖怪だけが残る横丁のアーケード門に、つるべ火がぽつりぽつりと浮かび上がった。その刹那
「おい!どうなってるんだ!?」
長身の青い衣を纏った男が金剛杖を片手に駆け寄ってくる。数メートル遅れて少年妖怪の呼子が息せき切って走ってくる姿が近づいて来ていた。
「おお!蒼!」
「蒼さん!」
子泣き爺とネコ娘の歓喜の声に、皆は一斉に活気づいた。まさかこの場で蒼坊主が到着するとは・・。その場に寝かされていた鬼太郎は、ゆるゆると起き上がると、呼吸の荒いまま肩を揺らして顔を上げた。
「・・・蒼兄さん・・・?」
「鬼太郎、大丈夫か!しっかりしろ!」
久方ぶりに耳に飛び込んできた声だった。窮地においてこれほど心強く思えることはない。と、鬼太郎の盾 になって仁王立ちする蒼坊主は、すぐさまこちらを振り返った。
「呼子に呼ばれて・・・こっちで大変な事が起こってるって言われたんだ」
「・・・ありがとう、蒼兄さん」
瞬間、緊張の糸が緩みかける。が、敵を前に再会を喜び合う余裕はないのだ。
「おい、古今の札は?」
「とっくの昔に使っちゃったよ!ぜーんぜん効かなかったんだから!」
「なにい!?」
「今更遅いって、蒼坊主おじさん」
やっとの事で追いついた呼子は呆れ顔でうそぶくが、遅れて到着した故にそう考えても不思議はない。
「――あいつは妖怪じゃない。だから古今の札も効かない。僕の存在だけが邪魔なんだ」
「そうか・・・でもな鬼太郎。俺たちの力を甘く見るなってこった!」
蒼坊主はにやりと口の端を上げて笑むと、懐から自分で書き込んだ護摩札を皆に投げかけるようにかざした。
「皆、頼む!この札に妖気を集中させてくれ。鬼太郎を少しでも守ってやりたいんだ!」
彼の鶴の一声に、間髪入れず皆は無心に自身の妖力を高めはじめた。目には見えない真摯な思いの力 は、一枚の札へと集まっていく。やがてその紙切れは最高の盾と化したのだった。
「こんな事しかしてやれねえけど、いいか、諦めるな」
「蒼兄さん・・・」
半ば胸へ押しつけるように蒼坊主は札を突き出す。ぶっきらぼうな男の手は、言葉以上に心を伝えていた 。鬼太郎はその仲間達の堅い想いの結集を肌で感じながら、そっと胸の奥へと忍ばせた。
「冥界符もきっとお前を守ってくれるさ」
「ありがとう、蒼兄さん」
いつだって危機があれば叱咤激励し、駆けつけてくれる。鬼太郎は蒼坊主の気持ちを察すると、微かに微笑んだ。
だが――力の差を思い知らされた今、こうして防御にまわったとて壊滅させるのは至難の業だ。がむしゃらに立ち向かうことは得策ではないだろう。
と、不意に鬼太郎は近くに横丁の者と違う気配を感じた。地獄王庁と同じ空気を纏った五官王があらわれたのだ。
「五官王さま!」
「鬼太郎・・・。閻魔大王さまから協力せよと命が下ってな」
命令以上に、本人がそれを望んでいたやもしれない。少しでも早く加勢したいと思っていたのだから。
「お前達だけでは羅刹部を退治出来ぬだろう」
確かに――ここまで戦い尽くしても、手をこまねく状態だった。苦境に眉を寄せる鬼太郎へ、五官王は袂(たもと)から色とりどりの幾重にも編み込まれ艶(つや)やかな太い縄を渡した。
受け取った瞬間、今まで感じたことのない強い感触に少々戸惑いを覚えが、
「この縄は我々十三王のそれぞれの能力を結集させた羂(けん)だ。お前の霊力も加えれば、羅刹も屈服するだろう」
「・・・・ありがとうございます、五官王さま」
「しかし・・・その前に、あやつらを退けねばなるまい」
「はい」
「鬼太郎、地獄の鍵を使え。獄炎乱舞で焼き払うのだ!」
「でも、それは閻魔大王様から使うなって――」
地獄の業火と、阿修羅界の業火。拮抗するであろう同じ属性の力を使うなど考えられない。しかし、五官王はきっぱりと言い切った。
「わしが許可する。お前に慈悲の心があるのなら許されよう」
意外な助言に鬼太郎は狼狽した。以前に無許可で強引に使ってしまい叱責された事もあった。それなのに心の持ちようであっさりと許されるのは不可解だ。
「僕は・・・そんな慈悲だとか、考えたことなんかない」
「ならば問う。お前は海中に目の前で溺れている者を助けたいと思うか?思うのなら使えるはずだ」
「思う・・・思います!」
無我夢中だった。この問いに否、と答える隙はなかった。
「お前にその心があれば、羅刹部の持つ業火などたいした物ではない。地獄の炎は絶対なのだ」
それならば――と、鬼太郎は安堵していた。【絶対】という保証を得た。しかし五官王から問われた心性(注1)の意味を分からないままであったのだが。
鬼太郎はぐっと右手で胸と掴み、一呼吸置くと天を仰いだ。
「開け、鍵よ!――来い、地獄の業火よ!」
胸ぐらから引きつけられる強い力が上昇し、灼熱の業火が滝の如く琥珀色の髪へと乗り移る。迷いなく鬼太郎は迎えに来た一反もめんに再び飛び乗ると、羅刹部等だけに向かって攻撃の炎を滾(たぎ)らせた。
あっという間であった。阿修羅界の持つ業火は、地獄の鍵を持った少年の放つ慈悲の炎に打ち負かされたのだ。
野太く呻く声がしばらく響き渡っていたが、徐々に消え入り、固唾をのんでいた面々は一仕事終えた鬼太郎へ口々に労いの言葉を掛けたのだった。
だが・・・本来の敵である羅刹はどうしたのか?鬼太郎は、愁色(しゅうしょく)を見せながらポツリと呟く。
「これで・・・お前だけになったな」
まるで旧敵に遭わんとするような口ぶりだ。
「出てこい!羅刹!」
未だすべてに決着を付けてはいない――。ここからは、過去の自分との決別の為の儀式。閻魔大王、十二の王達・・・そして仲間達から貰った思いや力を胸に、鬼太郎は真の対決へ覚悟を決めた。
次回で最終話です。ここまで読んで下さっている方には、本当に感謝しております!
注1・・・不変なる心の本性。人が生まれながらに持っている本性のこと。仏教用語です。