奇禍(きか)
どうして――。どうしてこうなったんだ――!
悔しさと哀しさが入り混じった憤懣やるかたない思いが、体の芯を貫いていく。
これほどまでに人間を憎いと思ったことはなかった。
そう、あの時までは・・・・・・。
鬼太郎の何十年来の友人である半妖怪のねずみ男――。
夜な夜な人間の町へ繰り出しては、ごみを漁るのが日課である。時には大人らし
く、繁華街の裏口から中途半端な量の酒瓶を拾ってきては、癇の抜けたアルコー
ルを口にすることもある。それでも妖怪世界では、好むものと嫌うものと意見が分か
れるところではあるが、大概においては寛容なのだ。
のんびりとマイペース。彼らにとっては至極自然体そのものなのである。
週末ともなると、都会の裏通りでは仕事帰りのサラリーマンを見かける。いや、ここで
は毎日のように千鳥足の赤い顔がふらふらと歩く姿などざらにあるのだ。
妖怪横丁の出入り口より数百メートル離れた路地には、興味本位で出歩く妖怪が
いたずらを仕掛けるという。
鬼太郎とネコ娘は、その真偽を確かめるべく探索へと向かったのだった。
「特に・・・何もないようだな」
辺りを見渡すが、これといった妖気が感じられない。ネコ娘にも目配せするが、彼女
も同様だった。
昼間は老若男女問わずにぎやかな通りだが、日没後の景色の静けさがかえって陰
湿な雰囲気を呼び寄せる温床へと変わるのは、た易いことなのだ。用心深く見守られ
なければならない。
「今度は上から探った方がよくない?」
背後にいたネコ娘はそう提案した。
「そうだな・・・。ビルの上や橋の上にも何かあるかもしれない」
もっともだと思った鬼太郎は同意すると、街路樹にとまっていた仲間のカラスに合図
を送った。
応援要請をしている間にも、二人は歩いてみることにした。
普段からアルバイトをしているネコ娘は、世間に疎い鬼太郎にとって、とても助かる
友達である。自分では思いもよらない助言をしてくれたり、時にはお金を貸してくれた
り・・・。彼女には少々頭の上らない部分でもあるし、その点においては素直に尊敬して
いるのだった。
「ね、ここ危ないわよ」
とっさにちゃんちゃんこの裾を引かれ、鬼太郎は思わず立ち止まった。そこは子供が絶
対に行くことはないであろう酒場街である。
「この辺り、事件が多いんだって」
「事件?」
こっそり耳打ちするネコ娘に、鬼太郎はやや顔をしかめて見返した。
「人間の大人がね〜お酒飲んで暴れたり、コンビニに入って強盗したり。全く世知辛い世
の中よね〜」
はあ〜っと呆れ顔でため息をつく少女に、鬼太郎は真摯な表情を浮かべた。
「でもそれは一部の人間の話だろ?確かにここ最近、人間界は荒れてきているし・・・。僕
たちの世界に介入しなければいいんだけど」
「うん。そうね」
雑談の最中、空の上から仲間の白い姿がふわりふわりと舞い降りてきた。長い布地の
ような妖怪、一反もめんである。
「ああ、ありがとう。一反もめん」
鬼太郎が身軽に乗り込むと、器用に浮かび上がる。
「上空から妖怪がいないかみてくれ」
「あいよ〜」
気前良く返事をすると、旋回させ上昇させていった。
真上から見える高層ビル群と、街灯が明るく照らす景色を鬼太郎は見渡すと、妖気を感じ
取ろうと緊張した。
軽く一周してみるが、やはり異変はなさそうだ。もう少し納得してからと思っていたのだが
「鬼太郎〜!私も一緒に行くわ」
ネコ娘が道路から手を振っているのが見えた。確かに一人にしておくのもいけない。
鬼太郎は一反もめんに低空飛行させると、腕を伸ばした。
「ありがとう」
ネコ娘は鬼太郎の後ろに横すわりで乗ると、嬉しそうに笑顔を向けた。
「今のところ何もないよ。しばらくしたら帰ろうか?」
「そうね」
こんな風にデートのようなことが出来るなんて、ちょっとラッキーかも?
ネコ娘は心の中で少し不謹慎だとも思いながらも、喜びを隠せないでいた。
これから先、事件が起こるとも知らずに――。
■ ■ ■
以前大百足が出没し、仲間のぬりかべ一家等と退治した大橋へ飛んでみることにした。
だいぶ復旧したときいてはいるが、やはりまだまだ工事中のようだ。
片側一車線、カラーコーンで道幅を狭めている。『工事中』の看板の横には、簡易式の
信号が灯っており、時間の経過を示すサインライトが、チカチカと照らされていた。
車の通りも多くはない。 いつも通りの都会の風景だ。
残暑の残る生ぬるい風が頬と髪をなびかせる。ネコ娘はきょろきょろと見回してから
「ね、帰ろう?」
「ああ・・・」
鬼太郎は頷くと、目玉の父に了解を取った。
「もう帰りましょうか?」
「うむ。そうじゃな・・・おや?」
父は遥かな先を指差した。
「どうしたんです?父さん」
その先には蛇行運転をしているセダン車が見えたのだ。あまり車に詳しくない鬼太郎だっ
たが、これはどうみても正常な運転ではないのが分かった。
「あの車・・・どうしたんでしょう?」
こういう運転する場合、居眠りか酒酔いかあるいは――。
「おかしいのう・・・。あれはろくな運転者じゃないな」
父の言葉に、ネコ娘は顔をしかめた。
「事故起こさなきゃいいけど・・・」
そう不安げに呟くネコ娘に、現実は峻烈だった。
蛇行運転していた車は、軌道修正をしようと突如スピードを上げて走った。目の前にある
信号待ちの停車中のワゴン車の手前で大きくスピンしてしまう。あろうことか、急ブレーキ
中に前にいた車は、脇から思い切り衝突されてしまった。照明灯の鉄柱にぶち当たり、フロ
ントガラスの砕ける音が響いた。
その後、後車はアスファルトに引きずられたような耳障りな音を立てながら、前輪を軸に一
八〇度回転して急停車した。
橋の上のこと、未完成な工事の最中、ワゴン車は斜め前に柵をなぎ倒し、むき出しにさら
された状態で止まった。前輪が海に向かって今にも落ちそうだ。
重い車体は、ずるずると前進していく。
「頼む、一反もめん」
鬼太郎はすぐさま一反もめんに近づくようにいうと、自分の髪を一本抜き剣状にすると、フロ
ントドアを叩き割った。
ネコ娘はドアロックを解除し開けると、見るとシートには血痕が四方に飛んでいた。膨らむエ
アバックに頬をもたれている三〇代であろう男性のシートベルトを外した。
「これは・・・ひどい」
ネコ娘は絶句した。
鬼太郎とネコ娘は精一杯の力で男性の体を持ち上げると、一反もめんにうつぶせのまま乗
せてあげることが出来た。
そして後部座席には、チャイルドシートで守られた幼い女の子と男の子が気を失っていたの
だ。
こちらの二人もシートのベルトを外し、外へ出してやらなければ・・・。
ネコ娘は慎重にバックルに手を伸ばし、ロックを外した。二人分の作業をしたとき、耐え切れ
なくなった車体は大きく前のめり、夜の海へと落ちていく。
「ネコ娘!」
鬼太郎は咄嗟に彼女に手を伸ばし、引き上げる。
「ありがとう、鬼太郎、でも・・・」
車ごと落下した幼子の姿は、一瞬にして深い水面へと沈んでいく。
「まずい!このままだと死んでしまうぞ」
髪の中にいた目玉の父の甲高い声が響いた。一反もめんは急降下して海面ぎりぎりまで寄
せ、瞬時に鬼太郎は飛び込んだ。
夜の海へ飛び込むというのは、漆黒の闇と波打つ海水の冷たさとの戦いだ。水中で必死に
目を凝らし、二人の幼子を見つけようと、下へ下へと潜っていった。
今ならきっと間に合う――。
意識のない体は、たとえ子供でも容赦なく沈んでいく。
鬼太郎は、一メートル程下に一人目を見つけた。暗闇の中にゆらめく白いTシャツが仄明る
い一瞬に光って見えたのだ。
海水をさらに掻き分け、少年の足を掴み、次に左腕も掴んで引き寄せそのまま上へと足を蹴
り上げた。下駄の霊力のおかげか、一つ蹴る度にぐんぐんと上昇を続けた。
しかし、もう一人の少女が未だに安否不明だ。不安に駆られたが、今は目の前の少年を助け
なければ・・・。鬼太郎はそう思いながらも、懸命に海面にたどり着き息をついた。
「一反もめん、頼む」
空中で待っていた一反もめんに託すと、再び目いっぱい息を吸い込み潜っていった。体力が
続くか、本当は自信がない。だがここで諦めるわけにはいかないのだ。
まだ二、三歳の幼い少女の意識は消えてしまっているのだろうか・・・?
鬼太郎はぐっと目を閉じ、精一杯の霊力を高め
“頼む!海の精たち、あの女の子を救ってくれ”
たまらず叫び出したいほどの思いで、鋭く辺りを見据えた。
ふっと眼の中に飛び込んできた視界の先に、光の粒が寄せ集まり、大きな輪郭を形取った幼
子の姿が、はっきりと見て取れた。
鬼太郎は確実に少女を捕らえようと手を伸ばした。
魚の大群がそれを手助けするが如く、ぐるりと旋回し、二人を上昇させてくれたのだ。それはき
っと鬼太郎の思いを酌んだ海の主達の優しさではないだろうか。
“ありがとう、魚達”
内心感謝の気持ちをつぶやきながら、ぐったりとした女の子を抱きかかえつつ、鬼太郎は仲間
の元へと泳ぎを進めたのだった。
「起きて!起きて下さい!」
お願い!助かって!
ネコ娘は、運転席から救出した父親らしき男性に向かって何度も声を掛け続けた。
鬼太郎が子供たちを救出してくれるのを待ちながら、ただ待機していなければいけないのが
歯がゆい。
無論、すぐに持っていた携帯電話で救急センターへ連絡したが、数分はかかる。
横たわっている男性は、時々苦しげに微かなうめき声を上げていた。額には一筋の血が流れ
ている。頭を大怪我したらしい様子では、下手に動かすことも出来ない。ネコ娘は自分ではこれ
以上手助けはできないのが悔しくて、涙を滲ませた。今は救急車の到着を待つしかないのだ。
後ろを振り向て見ると、加害車両はバンパーを凹ませたのみの軽いものだと分かった。
ややあって、がちゃりと運転席側のドアの開く音がした。出てきたのは、まだ若い男だった。ふ
らりと体をぐらつかせ、ぼそぼそと聞き取れぬ言葉を口にしている。
全くの無傷な姿に、ネコ娘は憤りを感じてすっくと立ち上がった。
男は目の前の惨状を見ると、慌てて自分の車に乗り込もうとしたのだ。
「逃がさないわよ!」
俊敏な動きで、すかさず男の腕を掴んだ。
「何するんだ!離せ!」
「あんたこのままひき逃げする気?逃げ得は許さないんだから!」
引きずり出そうとする少女の力は容易く負けてしまう。
「ガキがなんでこんな時間にいるんだよ」
そういう男の体からは、強いアルコール臭がした。飲酒運転での事故。それが分かると、ネコ娘
は再度憤慨した。
「早く警察呼びなさいよ。救急車は呼んであげたんだから」
『警察』の一言で男の表情が一変した。
「あんたに指図される筋合いはないんだよ」
「随分飲んでるじゃない。酔っ払ったまんま運転するなんて最低!」
「何だと?」
眉根を寄せて男は睨みつけてきた。明らかに目の色が変わってしまっている。
危ない!そう感じた瞬間、ネコ娘の後頭部に鈍い痛みが走る。不意の痛みに、膝をついた。
「最低だと?ガキに言われたくねえよ!」
興奮した男はなおも彼女の背中に向かって殴りかかり、避けようしてもなお足蹴にしてくる。ど
うも男の怒りの線にふれてしまったらしい。妖怪相手なら得意の引っかき攻撃もするのだが、人
間ではそうはいかないのだと、必死に堪えた。
何度も執拗にしてくるのは、今まで同じ事を繰り返してきた証拠だ。きっと簡単に女性にも暴力
で屈服させるような男なのだろうとネコ娘は思った。
やっとのことで鬼太郎は、幼い子供を安全な場所へ寝かせると、父親の男性の下へ走った。
だが無残な事故現場には、信じがたい光景が目に飛び込んできたのだ。
男は一方的にネコ娘に理不尽な暴力を振るっている。どう考えてもそれは八つ当たりにしか
見えないものだ。
飽きるほど妖怪とは戦ってきた鬼太郎であるが、人間には一度も手を上げたことがない。己の
自尊心に掛けて誓約したことなのだ。だが目の前に起こった状況に、胸のうちで何かが音もなく
くず折れる刹那を感じた。
「やめろ――!」
絶叫と共に、鬼太郎は男の中に飛びこみ割って入った。力一杯振り下ろそうとする腕を、彼女
の頭上寸前で止め
「いい加減にしないか・・・」
今までになく低く凄んだ声音で、鋭い眼光を向ける。
「体内電・・・・」
「鬼太郎!」
必死のネコ娘の声。痛みに耐えながら、搾り出す少女に鬼太郎ははっと目を瞬かせた。
「相手は・・・人間なの。体内電気使ったら死んじゃうわ」
鬼太郎の体内の電撃波は、雷に打たれるより遥かに上回るほどの威力があるのだ。妖怪より
ずっと脆い人間など、たちどころに命がこと切れるだろう。
涙ぐみながらいうネコ娘に、意識が引き戻される。それでも体中に残った怒りの熱は消えそう
にはなかった。
男は鬼太郎の腕を邪魔だとばかりに振り払った。
「余計なことわめくからだ。女のくせに生意気なんだよ」
アルコールの匂いを辺りに振りまきながら、ぐいっとこちらへ顔を近付けてきた。
大嫌いな酒の匂いがさらに苛立たせる。少しでも声を出したら、自制が効くだろうか。じっと睨む
しかできない。
「鬼太郎、もう関わらん方がよか。人間の世界は人間が決めるとよ」
上空からはらはらと見守っていた一反もめんは、やんわりと忠告した。
「ああ・・・そうだな」
本当は掴みかかって、何か攻撃技の一つでも食らわせてやりたい。無性にそんな衝動に駆ら
れるのを、どうにか押さえ込んで答えた。
「ともかく、ネコ娘を横丁まで運ぶのが先じゃなかね?」
「ああ、そうだ」
ぐったりと横たわる傷ついたネコ娘をそっと抱き、ぽつりと
「ごめん。僕がもっとしっかりしていれば・・・」
「鬼太郎、お前の所為ではないんじゃ。責めるな」
頭上から目玉の父は、打ちひしがれる息子にそう言うより言葉が出なかった。
数分後、けたたましいサイレンを響かせながら救急車両二台が到着した。追従してきたパト
カーを鬼太郎は確認すると、静かにその場を後にした。
■ ■ ■
深夜の妖怪横丁に戻った時、仲間の妖怪達に衝撃が走った。人間社会に対して慷慨(こうが
い)する者、反撃してやりたいと息巻く者もいた。
そんな中で、いつもの鬼太郎らしからぬ様子に、砂かけ婆や子泣き爺は掛ける言葉がなかった。
ネコ娘は一旦、長屋に預けられることになった。
翌日、鬼太郎は彼女の見舞いへ向かった。
まだ臥せっているネコ娘の痛々しいアザを見ると、あの時の怒りがふつふつと湧き上がってくる。
そして昨晩の出来事が夢のように思えた。今まで、自分がこれほどに激しい感情を持っているとは
思っても見なかった。
「来てくれてありがとう」
ネコ娘は徐に起き上がると、微笑みかけた。
「もう、いいのかい?体は」
「うん。大分マシになったよ。鬼太郎のおかげだね。私のこと助けてくれたんだもん」
「えっ?」
予想外な言葉に、鬼太郎は小首をかしげた。
「二人で・・・あ、一反もめんもいたけどさ、人間を三人も助けたんだよ?あの後どうなったのか
分からないけど」
「でもあいつはネコ娘を・・・」
言いたいことはわかっている――とネコ娘は強い視線で見つめてくる。
「私、嬉しかった。いっつも鬼太郎ってば、私のことスルーしっぱなしでさ。あんな風に本気で
怒ってくれて・・・」
「僕はいつだって本気だよ」
少しふて腐れる鬼太郎に、見つめていたネコ娘の心に優しい気持ちが溢れてくる。
私があの時止めなかったら、鬼太郎はどうなったんだろう?そう想像してみようと思ったが、
すぐに打ち消した。
二人の会話を聞いていた目玉の父は、息子の頭から飛び出すと意味深な口調で
「おお、ネコ娘。こんな息子でよければ、婿にしてやってくれんかのう?」
「ええーっ!何言ってるんですか?父さん」
父の突拍子のない発言に、鬼太郎はわけが分からなかった。
「そういう意味じゃないのかのう?」
わざと茶化す口ぶりだったが、息子は全く理解していない。
「やれやれ。せっかくの機会じゃったのに・・・」
親心は当分息子には届かないようだ。
翌日。ゲゲゲの森は快晴だ。
ゆったりとした時間が流れる、普段と同じ光景。
朝からゲゲゲハウスの梯子段を、小気味良く登る音が響いてくるあの足音は・・・
「鬼太郎!妖怪ポストに手紙が来てるよ!」
「ああ、ありがとう」
ネコ娘から手紙を受け取る鬼太郎に、先日の影はない。
何事もなかったかのように、過ごす日常が一番の癒しとなる。ネコ娘はそれを一番わか
っているだった。
これからもきっと人間界と妖怪世界との繋がりは続いていくだろう。鬼太郎の穏やかな横
顔を、静かに見つめるのだった。
終わり
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